12月号(2013)
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待降節の意味

待降節の意味

 

新しい典礼暦年の初めにある待降節は、主イエスの到来の神秘を深めるための適切な時期です。

事実、この季節はラテン語で“Adventus”であり、意味は“到来”のことです。

キリスト者である私たちが主イエスの死と復活を記念する主の晩餐を行うのは“主が再び来られるまで”です。(1コリ11、26)その到来が救いの完成をもたらしますので、心からそのことを望みながら、“マラナタ”(“主よ、来てください”)と祈り求めています。

主イエスを通して、“神は我々と共におられる”(マタイ1、23)ということが明確にされましたので、私たちは人類の歴史が神の働きの場、神と人間との出会いの場であることに目覚めます。待降節の4週間にわたってその神の働きに目覚め、その出会いの意味を深めるのは、私たちの務めになります。

 

1.主イエスの到来は過去と現在そして将来の出来事です

― 2000年前に主イエスは、神の国の恵みと喜びを実現し始めるためにこの世に来てくださいましたが、その御国を完成するために再び来てくださいます。(=主の再臨)この二つの到来の間、キリスト者である私たちが日々の生活の中で主イエスを救い主として迎え、御国の恵みと喜びを証するように召されています。

ヨハネの黙示録の言葉で言えば、我が救い主は“神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方”です。(1、8)

― この三つの到来を考える時、一つの共通点が目立ちます。主がいつも思いがけない時に人間が想像出来ない方法で来られるので、その到来のための準備として私たちが“目覚める”と“待ち望む”という姿勢を育てたり保ったりすることは大切です。

まず、“キリストは、人間のみじめさを帯びて、この世に来られた時”(待降節の叙唱 1)が恐ろしい日、裁きの日ではなく、神の愛と親密さを現す日になったことを悟らなければなりません。聖パウロの言葉で言えば、“私たちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れた”です。(テト3、4)

私たちはこの真実に基づいて、救い主の再臨を喜びと希望の内に待ち望んでいます。

― 主イエスは、人々が想像出来ない方法で2000年前に現れましたが、現在でも世の中での働きは神秘的であり、再臨も“思いがけないときに”(マタイ24、44)行われます。

ですから、“目覚める”のは、人間の知恵をはるかに超える目に見えない神の働きに目覚め、その働きに協力することになります

 

2.典礼を見ると待降節には二つの部分があります。

1)第一の部分は第一日曜日から12月16日までです。

この最初の部分は主の再臨の信仰と希望を深めるためです。

ですから、第一の日曜日に私たちはこう祈っています。

“神である父よ、救い主を待ち望む心を呼び覚ましてください。私たちがキリストを日々の生活の内に迎え、キリストに結ばれ永遠の国を受け継ぐことができますように。”(集会祈願)

実際に主の再臨を待ち望むのは、毎日キリスト者として生き、継続的な回心の道を歩み、恵みによっていただいた希望を大事にすることです。

“マラナタ”(主よ、来てください)は私たちの叫びになり、この部分のしるしは“空っぽの王座”です(5世紀のモザイクに良く出るしるしです)。

2)第二の部分は12月17日から24日までです。

この部分は降誕祭を準備するためです。

私たちがこの祭日を祝うのは、信仰の一つの偉大な神秘を悟ることです。

ヨハネの福音の言葉で言えば、“真の光で、世に来てすべての人を照らすのである。”(1、9) “言は肉となって、私たちの間に宿られた。”(14節)

“恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた。”(17節)

この待降節の部分には私の人生の中で主イエスを唯一の主として歓迎したかどうかということを調べるための適切な時間です。

この待降節第二部分のしるしは馬小屋です。

 

皆さんにとって恵みと希望と喜びに満たされた待降節になりますように、心からお祈りを申し上げます。

兄弟である神父、ジャンピエロ ブルニ

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