11月号(2013)
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“誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい”

“誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい”

(マタイ 26、41)

― 誘惑に対しての戦い - (その2)

 

1.この霊的な戦いを乗り越えるための手段

前の文章に書いたように、人間としても、キリスト者としても成長するために、誘惑に対しての霊的な戦いという真実に目覚め、その戦いの中で打ち勝つための方法を学ぶのは、当たり前のこととして、信仰の養成の大事なポイントとして認めなければなりません。 主イエスご自身から、誘惑を乗り越えるために、“目覚めて祈る”という姿勢が勧められていますので、まず、主イエスが何について私たちを目覚めさせるかということを理解しなければなりません。 簡単に言えば、自分の真実に目覚め、神の真実に目覚めることです
 
1)自分の真実に目覚めるとは、新約聖書によると、今こそ、“眠りから覚めるべき時”(ロマ13、11)であることを意識して、いつも目を覚まして、気をつけて、身を慎んで、神から与えられた役割を忠実に果たすことです。
目覚めるという呼び掛けは、明らかに、一人一人が自分自身としてとるべき姿勢を強調します。他の人を裁いたり、批判したりするかわりに、一人一人が深く自分の現実を、勇気を持って、明確にするはずです。

2)この目覚めた姿勢を実現すれば、信者が清められた心で神がそばにいてくださるという真実に目覚め、喜んで、神の御導きと、共に歩むための力と恵みをいただきます。
ですから、絶えず目覚めるという姿勢は、信仰と希望と愛が成長出来るための適切な雰囲気となっているし、6世紀の修道者が呼んだ“三つの大きな巨人”である無知と忘却と無精に打ち勝つための大事な手段になっています。
目覚めたキリスト者は、誘惑と強く戦い、それに打ち勝ち、自分の力を欲望に使うためではなく、神に対して、また兄弟に対しての愛を実現するために使うよう努めます。
信仰の養成の伝統的な教えの中で、目覚めた姿勢が祈りと深く結ばれています。なぜならば、誘惑に対して戦うときに、祈りが非常に効果的な手段となるからです。(参照:マタイ 26、41)祈りのおかげで、私がひとりで戦っているのではなく、私の力と希望である神が私と共に戦い、私を支えてくださることを悟ります。

2.誘惑に打ち勝つことによって、主イエスの復活の力を体験します。

主イエスと共に誘惑に対して戦うのは、悪と死に対しての復活した主イエスの勝利を分かち合うことになります。
誘惑の危ない状態の中で、私たちの限られた力だけに頼ることが出来ないことを意識することで、恵みとして与えられている力に頼るようになります。
信仰生活が、継続的な回心の歩みであるのは、私たちのうちに働いてくださる聖霊の導きと力にますます目覚めることで、信頼をこめて、私たちのすべてを神の愛と力にゆだねることを学ぶことが出来るのです。
私たちの弱さを何回も体験しながら、その弱さの中で私たちを支えてくださる神の働きを体験します。
この神と私たちの協力についてエレミヤ預言者は次のように解釈されています:“主よ、あなたがいやしてくださるならわたしはいやされる、あなたが救ってくださるなら私は救われる。”(17、14)
私たちのうちに働く神の恵みと協力するために、次のことが教会の教えの中で特に勧められています。

1)御言葉に親しみ、毎日それを黙想すること。ひとりの教会の教父がおっしゃる通り、“御言葉を黙想するのは、戦いのために心を目覚めさせるラッパに似ています。競争者が眠らないから、あなたは眠くならないように。”
“聖なる朗読”を行うのは、私たちの人生の中で、神に仕える姿勢を保つためにとても適切な方法です。

2)神の言葉に親しむことと深く結ばれている方法ですが、祈りがもう一つの適切な手段です。
主イエスの勧めを受け入れ、毎日、“私たちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください”と願うのは、危険に目覚めて、謙遜な心で神の恵みを願うことです。

3)霊的な指導者に自分の心を打ち明けるのは、教会の伝統の中でよく勧められている方法です。実際に、だれにとっても、信仰の歩みを一人で行うのは危ない状態ですから、私たちを導く兄弟を見つけることは大切です。

4)どんな状態の中でも希望を失わないことは大切です。私たちは絶えず許されている罪人です。
聖ベネディクトの戒律に書いてある通り、どんな状態の中でも、“神の憐れみについていつも信頼することを守るのは大切です。”

 

兄弟である神父:

ジャンピエロ ブルニ

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