8月号(2013)
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神から愛されていることを謙遜な心で認めること。

キリスト教の秘密。

神から愛されていることを謙遜な心で認めること。

 

台北では、ある青年のグループが、キリスト教からある新教に移りましたが、その選択について尋ねられたときに“キリスト者として生きるのは難しい。もっと楽な道を見つけようと思いました。”と答えました。

実際に人間としての判断で見れば、キリスト者として生きるのは難しいというよりも、無理なことです。キリスト者であるのは、神と共に生きることですが、神が完全なものであるのに、私たちは不完全で小さなものです。

 

多くの聖人たち- 特に、聖アウグスチノ -がこの真実に気づいて、キリスト者であるための一つの条件を強調しています。それが謙遜な心を持つことです。いつまでたってもあなたは完全なものになりません。あなたの足りなさの中で、助けと憐れみを与えてくださるのは神の愛です。

ですから、貧しいものでありながら、絶えず許され、無償的と無条件的に神から愛されていることを素直に認めなさい。

 

すでに主イエスから使徒パウロに言われたように、“私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのです。”(2コリ12、9)

 

聖フランシスコは、ラ・ベルナの山で聖痕を受けてから、レオ修道者を呼んで、ひれ伏してからこう願います:“レオ兄弟、私の口を踏みながら、私が悪い者で、サタンよりももっと悪い者だと言いなさい。”

 

そうです、謙遜な心を持たなければ、神の働きを認めることが出来ません。

私たちがしなければならないことと、実際に私たちが出来ることとは非常に大

きな違いがあります。

信者にとって信じにくいことであるのは、天地の創造主、全能である神から小さなものである私たちが愛されるということです。

しかし、偉大な聖人たちこそ、神から愛されていることを認めるのが偉大なポイントだと強調しています。

 

幼きイエスの聖テレジャの言葉で言えば“世の初めから今までの犯された罪を自分自身が犯したということになっても、信頼をこめて、主のまえでゆるしを求めたら、必ず受け入れられていることを固く確信を持っています。”

 

愛を信じる人は、愛を体験するようになります。

私たちが完全なものではなく、神ご自身が完全なものですから、惜しみなく私たちを愛してくださいます。これこそが福音の中心です。人間にとって無条件で愛されるという、これよりもっと大きな喜びはありません!

死のときに、主イエスに出会う時、心からこの祈りが出来るように希望しています。“主よ、空っぽな手であなたに出会いますが、私の賞があなたの憐れみだと固く信じています”。

 

キリスト教は偉大な道です。それを完全に歩むのは難しいことではなく、無理です。そうです、無理ですが、Charles De Foucauld(チャールズ・デ・フーコー) が教えてくださったように、“私たちの神は無理なことの専門家です。”実際に私たちに出来ないことが、神によっては出来るのです。“無理”なことが奇跡ですが、神だけが奇跡を行うことが出来ます。

神の愛を信じるならば、私たち自身が神の恵みと愛の継続的な奇跡であることに目覚めるようになります。

この奇跡が実現されますので、どんなことがあっても、愛を信じて、神に信頼を置き、神の愛のうちに永遠に生きるようになることを希望しています。

確かに、キリスト教の中で、偉大な真実に目覚め、神の愛によってそれを生かすことが出来るようになります。

 

兄弟である神父、

ジャンピエロ ブルニ

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